柿の木日記・
アウトリーチプログラム
職員がホールでの日々のできごとや、
アウトリーチプログラムなどについての
情報を発信しています。
2022年1月10日(月・祝)
三浦謙司さんインタビュー【前編】
2/25に小ホールでのリサイタルに出演されるピアニスト 三浦謙司さん。
昨年9月、来日中の三浦さんに当館にお越しいただき、じっくりとお話を伺いました。
人間として、ピアニストとしての三浦謙司に迫ります。
5歳でピアニストになると決意
■三浦さんのプロフィールを見ると、まず「4歳のときに自分の意思でピアノを始めた」とあります。
当時は家族で祖父母の家に住んでいたのですが、そこに古いアップライトがほとんど家具のように置いてありました。自分が1歳ぐらいになって歩けるようになると、ピアノの足と足の間に座っていたそうですが、そこが自分の特別な場所だったようです。ピアノの鍵盤に手が届くようになると音を鳴らし始めて、4歳の時には自分でピアノを弾きたいと言ったそうで、近所の先生に習い始めました。
始めてからはピアノがもう大好きで、5歳の時にはピアニストになると宣言したそうです。
■当時の三浦さんにとって「ピアニスト」とはどういうイメージだったのでしょうか?
家族が音楽好きというわけでもなく、親戚に音楽をやっている人もいないですし、当時コンサートに連れて行ってもらったこともないと思いますので、職業としてのピアニストというよりもただ単にピアノが好きで極めたくて、それでプロになりたいという意味合いだったと思います。
小さい時から、スポーツでも何でも、やるんだったらある程度までできないと嫌なタイプだったんです。ピアノについては特にその思いが強かったみたいで。最初は全然弾けないわけじゃないですか。弾けるようになりたいので、幼稚園の頃から自主的に3時間ぐらい練習していました。6~7歳ぐらいである程度弾けるようになると、パタッと練習しなくなって。その後、地域の発表会で上手だなと思った女の子のお母さんに先生を紹介してもらって、その先生のもとでまた真面目に練習し始めました。
■10歳の時にお父様の仕事の関係で、家族でドバイに移住されたそうですね。
今ではコンサートホールやオペラハウスもできたそうですが、当時はまだクラシック音楽はポピュラーではなく、ピアノの先生もいないですし、コンサートなどの文化とはかけ離れた環境でした。ピアノの先生につけず、自分が好きな曲を好きなように弾いていたので、だいぶ演奏はひどくなっていたと思います。
日本の先生のもとではそれなりに伸びていたと思うのですが、急遽ドバイに行くことが決まって先生にそれを伝えたところ、僕の親には、この子を行かせたらピアノの才能がつぶれてしまうと言ってすごく反対されたそうです。そうは言われたものの、親は息子がピアニストになるとは思っていなかったですし、家族で一緒にいた方がいいでしょうということで、僕も行くことになりました。
■その後、13歳でイギリスに留学されましたが、そのような環境でまずどうやって情報を収集されたのでしょうか?
アラブ首長国連邦は外国人の割合が高いのですが、自分たちが住んでたところにも外国人が多く、母親の友達の中にイギリス人の女性がいたんです。家に呼んだ時に自分がピアノ弾いたりしていたのですが、その方がイギリスには寮付きの音楽学校があることを教えてくれたんです。学校の名前も教えてもらったので調べて、この学校に行きたいと親に言ったら、「オーディションを受けたいなら受けなさい。でも落ちたらフライト代は返しなさいよ。」と(笑)。結果、オーディションに受かり、奨学金も全額いただけることになったので行くことになりました。
小さい頃から、親からは「人に頼らず、自分で決めたら自分で責任をとって、自分の力でやりなさい」と言われていたので、親に何かを相談して決めたことはないですね。違う国に引っ越すときも大学に入るときも、結婚のことも、特に相談をしたことはないです。今から見ると結果オーライなんですが、ちょっと間違っていたら大変な人生になっていたかもしれませんね(笑)。
音楽を続けることについて考え、悩み、下した決断
■18歳の時にイギリスの王立音楽アカデミー、ドイツのベルリン芸術大学、アメリカのカーティス音楽院を受験しすべて合格、ベルリン芸術大学で学び始めます。
13歳から18歳までロンドンの学校にはいたのですが、奨学金を得られたとしてもロンドンという街は生活にすごくお金がかかるので、ここに住むのは不可能だというのはわかっていました。本命はベルリン芸術大学でした。学費が無料ですし、当時学校としてのレベルも高く実際にそこで学んでいる知り合いからも話を聞いていたこともあります。それにベルリンは他のヨーロッパの首都と比べるとリーズナブルに住めて仕事も見つけやすい街だというのを聞いてたので、バイトを重ねたらなんとか生活できるなと思っていました。カーティスは、当時ついていた先生から勧められて受験しました。ピアノ科などは年に1~2名が受かる程度の小さな規模のエリート学校といったイメージでした。受かったら学費は全額免除で、部屋にはスタインウェイが置いてあって…というような。入っただけでもある程度のステータスになるような学校ですが、自分がまだまだ未熟なのにそのような環境には居られないなと思っていました。ですが、先生から「世界のレベルを実際に見て確かめるために受けてみなさい」と勧められたので、受けたのです。
僕は15歳ごろから音楽をこのまま続けてよいのかを悩んでいたのですが、自分の中の結論をこの受験の結果に見出したいという逃げ道を作ってしまったという面もあります。「もしこの3つすべてに合格したら、それはピアノをやるべきだというサインとしてとらえよう」と決めてしまったんです。そのような気持ちで始めてしまったので、結局大学を中退するということにつながったのではないかと思います。
ピアノから離れて
■19歳の時にベルリン芸術大学を中退されたのですよね。その時には、また音楽の道に戻るという可能性は考えていましたか?
絶対ピアノにもどってくる、というのは分かっていました。ピアノをやるために止めたのです。
何事かを極める人というのは、それに長い時間を費やしてきてるからこそそれだけ上手くなってるのだろうし、それにつれて道もどんどん拓けていく。でも、上にいけばいくほど(他の選択肢はなくなっていき)狭くなるじゃないですか。それでそのまま(何も考えずに)進んでしまえるんですよね。でもそのままではいけないと思ったんです僕は。
ピアニストは他の仕事と同じように職業としてのシステムもあり金銭的にも成り立っていますが、例えば何時から何時までオフィスに行って終わったらスイッチオフして家に帰って、週末に休みがあって…という人生ではないですよね。すべての物事の中心にこれ(ピアノ)を置いて、このためにどれだけの時間を費やして、どれだけ他のものを犠牲にしているか。でもピアノが上手い人なんて世界中にいくらでもいるし、自分一人が辞めたところで世界は何一つ変わらない。そういった中で、自分がそこまで苦労して他のことを犠牲にしてでもピアノやる意味は何なんだろう。と考えたのです。「ピアノをやりたい」ということは分かってるけれど、「それは何故なのか」が分からないので、それを見つける時間を持ちたかった。
もともと自分の意思でスタートしたことだとしても、たった4歳でその後の人生全にて影響することを決断できるわけないじゃないですか。子どもなりにどれだけ考えたとしても、どういう意味を持ってこういう人生を歩むのかなどはわからない。それをそのままにして流れていくのは嫌でした。このままでは芸術というか、音楽に失礼だと思ったので、もっと覚悟がいるなと思って一度離れることにしたのです。
■ピアノから離れている間は何をしていたのですか?
最初の6ヶ月間ぐらいはベルリンで働き、日本に引っ越すための資金を貯めていました。当時両親がドバイの転勤を終えて日本に帰ってきていたので、これまで離れていた分の家族の関係を築くためにも一緒に住もうと思っていたのですが、急にまた転勤が決まってインドネシアに行ってしまったんです。結局一緒に住むことはなく日本に帰ってきた意味がなくなってしまったのですが(笑)、決めた以上は仕方がないので仕事を探して働いていました。日本では部屋にピアノもなく、ピアノとは完全に離れていたのですが、あったら逆に甘えてたかもしれません。ずっと毎日やってることを急に止めたら寂しいじゃないですか。寂しいからピアノを触って、触っていると楽しいからまた弾こう。となったら結局やめた意味がなくなってしまうので、ない方が良かったんだと思います。
そして、ピアノの道へ
■ピアノの道に戻ろうと決めたのはいつ頃?
2013年の9月です。2014年の1月が入試だったので4ヶ月前ですね。4ヶ月で1年半のブランクを取り戻すという。毎日12時間働きながらっていう無茶苦茶な状況でした(笑)。知り合いに借りたペダルもないキーボードを机の上に置いて練習していました。日本の先生も知らないしレッスンに行くお金もないし…もう必死でした。本当は入試の1か月前ぐらいに仕事を辞めて、ドイツで集中的に練習しようと思っていたのですが、引っ越し費用やフライト代、向こうでの当面の生活費を考えるとお金が足りない。結局入試の一週間前まで仕事を続けました。しかも当時は工場で力仕事をやっていて、一日中立って鉄を削ったり叩いたり穴をあけたりしていたので、体はカチンコチンで。家に帰って夜勤明けに練習するのはかなりきつかったです。一週間ぐらい前にベルリンに着いてからは知り合いの家に泊めてもらい、そこでやっとグランドピアノを触ることができました。一度、ベルリン芸大時代の先生に聞いてもらったのですが、先生も何を言っていいか分からないほどで「大丈夫かね…」と言われたのですが、それでもアドバイスをいただいてギリギリまで頑張って練習してなんとか受かりました。それからも色々と大変なことはありましたが、やはりその時はかなり苦労したのだなと思います。
■その時の苦労が強さになっているのですね。
そうですね。それと、もし自分一人だったらここまでできなかったかもしれません。ベタな話かもしれませんが、今の奥さんと出会ったのが、大学を辞めて日本に帰るフライトの1週間前だったんです。バイト先でたまたま出会って、目が合った瞬間に惚れちゃったんですよ(笑)。実は当時、僕はベルリンが大嫌いだったんです。自分の中でもやもやしたまま芸大に入って、良い大学に入れたのに授業も出る時間がないほどバイトばかりしていて、想像しいてた生活が全くできてなかったので。当時はもう二度とベルリンに来ることはないだろうと思っていたのですが、出発する空港で、この先のことなど全く分からないのに見送りに来てくれた彼女に「絶対帰ってくるから」と言ってしまったんですね。日本にいても彼女を待たせているという気持ちはずっとありましたし、音楽に戻ろうと決意した時に、だったら彼女の待つベルリンに行くしかないし、この入試には絶対合格しないと、と思って頑張れたのだと思います。自分一人だったら多分本当にきつかったと思います。
to be continued…
インタビュー後編はこちら
【公演情報】
三浦謙司ピアノ・リサイタル
2022年2月25日(金)18:30開場/19:00開演
めぐろパーシモンホール 小ホール
全席指定 一般3,300円 / 学生2,000円
Program
J.S. バッハ :協奏曲 ニ短調 BWV 974
ハイドン:ソナタ 第50番 ニ長調 Hob. XVI: 37 op.30-3
ベートーヴェン: エリーゼのために
J.S. バッハ:幻想曲とフーガ イ短調BWV 904
メンデルスゾーン: 厳格な変奏曲 op.54 U 156
J.S. バッハ :イタリア協奏曲 BWV 971
リスト :イゾルデの愛の死(ワーグナー) S.447 R.280
ストラヴィンスキー/三浦 謙司 編:「プルチネッラ」よりセレナータ
ストラヴィンスキー :ペトルーシュカからの3楽章